2013年度地域文化学会研究大会(第16回)

日  時  2013年6月15日(土曜日)午前10時〜午後5時30分

会  場  中央大学後楽園キャンパス

 

総合司会 友成輝夫(古義研究所)

開会挨拶 理事長 黒田壽郎(国際大学名誉教授) 


午前の部 研究報告10:0011:25) 司会:中田達也(東京海洋大学)

第五福竜丸事件(1954)における危険水域の相対的評価ー1950年代の海洋保護区の捉え方に照らして  

                青木望美(東京海洋大学大学院博士後期課程)

ハイサム・マンナーアー市民的抵抗の思想をめぐって

                今澤紀子(フェリス女学院大学非常勤講師)


「第五福竜丸事件(1954)における危険水域の相対的評価ー1950年代の海洋保護区の捉え方に照らして」

青木望美(東京海洋大学博士後期課程)

 

 195431日の米国の水爆実験により多数の日本漁船が被爆した。その象徴として第五福竜丸事件がある。当時、米国はマーシャル諸島のビキニ環礁、エニウェトク環礁で核実験を行っていた(19461958)。これに伴い、実験区域周辺を危険水域に設定した。この発表では、危険水域設定につき、1972年の人間環境会議以前の国際社会における環境保全の視座による海域設定と比較し、相対的に評価している。

 この危険水域(danger area)は、立入禁止ではなく危険を警告する性質のものであった。第五福竜丸事件後も核実験は続くが、同事件を機に「部分的核実験禁止条約」(1964年)が採択される。しかし、1960年代後半から仏国も核実験を行っており、その際に危険区域を設定している。これらの危険区域は、国家が一方的に設定している。しかし、その汚染被害はビキニ事件でも太平洋全域にわたり、不可逆的な損害をもたらした。

 そうした環境保全の視点に立てば、当時の国際社会でも幾つかの海域設定が行われている。その一つの国立公園は、景色などの外観を保護する区域設定であり、1962年の世界公園会議では、「適当な沖合」にまで拡張していく必要性が勧告された。他方で、資源の保護(内観)を目的とした条約が1850年代以降締結されていく(1938年国際捕鯨取締協定議定書第2条など)。こうした存在するものを保護する区域設定だけでなく、油濁汚染など汚染に対する区域の設定が行われるようになる(1954年海水油濁防止条約)。

 これらの環境的視座に基づく海域設定は、事後も含め国際社会の議論を通して行われている。しかし、核実験に伴う危険区域の設定は、被害の広範さを考慮すると客観性の点で疑問が残る。かかる事態は、福島第一原発事故に伴う避難区域の設定でも同様であり、原子力関連の様々な国際機関が存在する現代では、そこでの議論も踏まえ一層客観性ある区域の設定が求められる。

以上


「ハイサム・マンナーアー市民的抵抗の思想をめぐって」

 

                今澤紀子(フェリス女学院大学非常勤講師)

 

 2010年チュニジアに端を発した民主化要求デモ「アラブの春」は全アラブ世界に広がり、特にシリアでは内戦から対シリア戦争へと拡大した。それはインターネット、携帯電話等のソーシャルネットワークにより全アラブ世界に波及したといわれている。しかし論者はそういった外的手段よりアラブ世界自体の内面的変化に着目し、シリアの国民協同機構パリ支部の代表者ハイサム・マンナーアを通してアラブ世界の新しい動き―イスラーム的民主化運動(論者は民権主義と呼ぶ)を分析する。

 彼は1951年に生まれ、1978年フランスに亡命した。19676月戦争(第三次中東戦争)後、アラブ・イスラーム世界で西欧文明に対抗しうる新しい思想が模索され、彼は近代西欧の政治思想ともイスラーム主義とも異なる第三の道―市民的民衆による民権主義こそがアラブ世界を救済するという結論に達した。1998年「アラブ人権委員会」を創設、2011年にシリアの左派・クルド系組織「国民協同機構」の在外支部代表を務める。

 彼は言う。第1は、イスラーム法の下で、市民は神との契約により国家の管理・運営を付託され、それに正しく応えることがムスリム最大の義務であって、それがイスラームの市民的価値(キヤム・マダニーヤ)である。第2は、民権主義(ディームクラーティーヤ)は西洋の民主主義の模倣ではなく、イスラエルからアラブの領土を解放するため市民自らが主権者となる民権主義国家を創設することである。第3は、市民的民衆(シャアブ・マダニー)による抵抗運動は内部または下からの非暴力による。第4は、シリアにおける民権主義(ディームクラーティーヤ)は、宗教的・民族的多元主義で、男女は法的に平等である。2011年の「市民の春」の様態は、まさに彼の思想の具現であったといえる。しかしこれが欧米による圧力に抗して、どのように定着、発展していくのかを見きわめるにはまだ時間が必要である。

以上


<昼食・総会>11:3013:00

理事会(11:35~12:15)

総会(12:20~12:55)

 


午後の部13:0017:30

シンポジウム ―現代文明の危機と地域研究の対応―    司会:黒田壽郎

パネラー報告(13:0015:50

現代文明の危機と近代法の構造        眞田芳憲(中央大学名誉教授)

ローマ法の普遍性と地域性          森光(中央大学准教授)

アメリカ的価値観の普遍化指向とその行方   加藤淳平(元常磐大学教授)

近代における宗教の位置ー仏教における自我と他者 

                 北島義信(正泉寺国際宗教文化研究所所長)

ウブントゥの法思想と近代法         松本祥志(札幌学院大学教授)

 

ディスカッション(16:1017:15


「現代文明の危機と近代法の構造」

眞田芳憲(中央大学名誉教授)

 

 法律学の視座から現代文明の危機を考える場合、現代法の基礎を形成する近代法なるものの実像の再検討から始めねばならない。近代法は、個人を無制約的に絶対化して、かつ抽象的人間と把握し、自由・平等・博愛と特徴づける。近代法の法的構造の特質を総括すれば、(1)権利の体系化、(2)個人主義の絶対化、(3)自由と意思の支配、(4)峻別の倫理の徹底、(5)抽象性・合理性・技術性の普遍化ということになろう。

 現代法は、近代法の原理を基底に置く限り、―無論、近代法を修正する諸々の福祉国家的立法改革が行われたとはいえ―孤立化した個人を人間疎外から解放し各個の個人に真の自由と安定を付与し、人間性を尊重するにふさわしい自由と秩序を構築することは不可能であった。現代文明に問われる鍵概念は、共同体・統合・地位(身分)・成員・位階・象徴・規範・同一性等であった。その旗手の一人がRA・ニスベット(Robert A. Niesbet, 1913-1996)の共同体復権論であった。

 現代文明の新しいパラダイム・シフトとして問われてきたものに対応して法の世界に登場してきたのだが、アメリカ合衆国を中心として展開された批判的法学研究(Critical Legal Studies = CLS)運動であった。CLS運動は、ヴェトナム戦争以後、社会道徳の崩壊がとみに顕著になってきたアメリカ社会における法システムのイデオロギー性と実践を総点検し、法の研究・教育・司法の場において道徳の再生と人間性の回復を希求し、共同体的社会の再構築を目指す運動であった。

 CLS運動の論者は、近代以降の自由主義社会の根本矛盾を自己と他者、個人と共同体、戦争と理念、権利と義務等の対立という複合的二元論の深層構造の中にあると見る。それ故に、彼らは、ある者は権利の観念を否定し、ある者は権利の観念に消極的評価を与え、犠牲と共有(D. Kenndy)、愛と相互の尊重(S. Lynd)、具体的普遍としての自己の統合(R. M. Unger)を説くのである。しかし、CLS運動は一種の精神革命を志向するものであって、究極的には「神への訴え」(R. M. Unger)と悲痛な祈願に頼らざるを得なくなっていった。

 現代文明の危機に応答しつつも、挫折したCLS運動の志向するものを考えるとき、イスラーム法に見る地域研究の重要性を強調せざるを得ない。イスラーム法は属人法主義の基調として属地法主義へと転化しつつ、法の倫理化を第一義とする義務の体系である。例えば、国際法を見てみよう。西洋法に源を発する現代国際法は、国家のみを法的主体とし、属地法主義を原則とするが、今日、人道法の領域において属地法主義から属人法主義へと動いている。これに対して、イスラーム国際法はイスラームの世界化に伴ない、属人法主義を基本としつつも次第に属地法主義へと転換していくが、イスラームの初期から、戦時における捕虜や民間人の保護等に関する条約や児童の権利条約の規範的内容を先取りし、国際人道法の先駆的亀艦となるものであって、まさしく国際人道法の歩みはイスラーム国際法から学ぶべきものが多い。

 「新しい酒は新しい革袋に盛らなければならない。」われわれの世俗法社会にあって、社会的過誤があれば、その都度、立法によって対処し、社会的需要に応えていく。しかし、過誤を免れ得ない人間に真に倫理的な立法対応は期待し得るのであろうか。福島原発事件に見られる企業・政治家・官僚・原子力学者等々の倫理観の欠如の実態を見るとき、「新しい革袋」はいかにして整えられるのか、悲観的にならざるを得ない。現代に課せられたパラダイム・シフトとは何か。これこそがわれわれに負わされた責務であり、課題である。

以上


「ローマ法の普遍性と地域性」

森光(中央大学准教授)

 


「アメリカ的価値観の普遍化指向とその行方」   

加藤淳平(元常磐大学教授)

 

 


「近代における宗教の位置ー仏教における自我と他者」 

                 北島義信(正泉寺国際宗教文化研究所所長)

 

 


「ウブントゥの法思想と近代法」

松本祥志(札幌学院大学教授)

 

 近代法における人権は普遍的なものでそれ自体は問答無用とされてきたが、ングニ諸語の哲学・倫理原理であるウブントゥを介在させることで、近代法における人権を異文化融合させ、人権を文明化させることができるのではないか、という問題意識から以下の報告がなされた。

 ウブントゥは古代エジプトのマート(真理又は女神)に起源をもち、人間性(humanness)と訳される。ウブントゥは他者の人間性に対する深い敬意に基礎づけられた概念であり、自己は他者の差異で分離し他者に対する責任で結合する。他者の差異によって自己を問い質すことで自我を呪縛から解き放ち、他者性の真っ只中に飛び込ませることにより全体における自己の位置を見出し、自己の固有の責任に気付く。この責任は無起源的なものであり、他者との具体的な関係性等において現れ、見返りを求めない贈与・歓待において履行される。

 近代法における人権とは、他者の到来を前提とせずに自己の人権を普遍的に保障するものであり、その抽象性には施しの介入の余地はない。ギリシア、ローマの法は均衡という概念によって他者という客観性を前提としていたが、キリスト教においては人間それ自体に価値があるとされ、他者は不可欠な存在ではなくなった。つまり、近代法における人権は、他者との具体的な関係性、問題の背景等を客観的に考慮することなく一律な適用を強いる普遍主義的なものとなった。

 一方で、ウブントゥの法においては、他者に対する無起源的な責任があり、自己はその履行により共同体の構築・修復に参加する。その履行の結果として他者から受け取る倫理が権利となる。「我々あり、故に我あり」とされ常に自己以前に他者がいるのであり、他者に対する自己の責任を履行した結果として倫理を享受することが権利である。法とは個人の責務のことであり、司法の目的は当事者の関係全体を解明しその関係性を構築・修復することである(故に真実を供述したものは免責される)。このようにみるとウブントゥにおける人権とは他者の権利を尊重することであり、異文化を迎え入れることであるといえる。

 ウブントゥは南アフリカの裁判所や真実和解委員会で実践が試みられてきた。1993年の暫定憲法においてはウブントゥの必要性が明記され、1996年の新憲法においても受け継がれている。暫定憲法のウブントゥ規定に根拠をもつ真実和解委員会が新憲法下でも継続され、又ウブントゥの妥当性は憲法裁判所で確認されてきた(19946月から20077月までに31の憲法判例がウブントゥに言及している)。更に、ルワンダにおけるgacaca、ウガンダにおけるmato oput等の真実和解委員会方式には大規模な紛争を真実の解明によって解決するために、ウブントゥの思想が用いられた。

 上記のとおり、ウブントゥは人権そのものの文明化つまり異文化融合に寄与し得る。ウブントゥの法思想は、クローバック条項を通じて国際人権規約(B規約)の相対的人権に影響を与えたり、その美点・価値の一つとしてアフリカ人権憲章の諸権利を発展させ得る。人間の基礎的権利は対世的効力があるとされるので、ウブントゥ法思想が世界文明の形成に寄与し得る。また、ウブントゥは他者の差異の迎え入れにおいて、異文化間紛争の解決にとって新たな可能性となり得る。

以上


ディスカッション

 

パネラー報告の後ディスカッションが行われた(以下敬称略)。

 

黒田(司会):欧米における自我意識とそこにおける他者の認識について法的な観点から眞田先生と森先生から、北島先生からは「悟り」を巡る仏教の議論の展開について、松本先生からウブントゥの思想の意味についてお話を受けた。パネラーのお話を受けて眞田先生からコメントを頂戴したい。

 

眞田:悟りに至る道、六波羅蜜、悟りの実践、他者との関わりでの実践。布施というのは他者に対して差し上げるという、布施をする者と布施を受ける者と布施物の3つがあるが、布施は松本先生の言葉を借りれば無起源的なものであって、布施というものの中で、他者との間でどのような関係性をもつのかということが問題となってくる。松本先生がおっしゃったウブントゥの概念が南アフリカの裁判でも使用されるということは興味深いことだ。

 

北島:眞田先生のご指摘の布施については、信者からいくら包めば良いかと聞かれても言わないことにしている。それでは困ると言われたら、具体的なメニューを示しながら答える。具体的なメニューを示さなければ布施できないということは、日常生活の中で布施的な行為がないこと、つまりそのような行為をする場=共同体がないことを示していると思われるが、共同体がないということであれば共同体を再構築していくという作業が必要なのではないか。共同体がない中では宗教は難しく、縁起の視点からもう一度考えていく必要があるのではないか、と考える。

 

眞田:共同体をどのように活かしていくか。共同体が崩壊していく最も大きな帰結は人間同士の結びつきが契約関係になることであり、これが人間関係を孤立化させているように思われる。契約社会の中にあって共同体をどのように維持していくのかは大きな課題だ。

 

松本:共同体をどのように捉えるかは議論がある。自己と他者が人間的に繋がるという意味での共同体は生涯作り得ないというのが実際だが、外部の内部化、自己の延長としての他者という点においては、親密な他者との間においては契約関係を超過している。共同体とは契約関係を超過するところでしか作れないのではないか。同時的ではなくともいつかリターンがあるかも知れないという想定で超過は親密な他者との間で贈与されたりしている。その部分が祝福されたりすることはかかる贈与を疎遠な他者に対してすることを妨げていると思われるが、これを超越することが必要。

 

加藤:日本本来の共同体、アフリカのウブントゥには普遍性があると思う。日本の法律や物事の処理の方法は明治以降のものでそれに基づいて現在も行われているが、日本本来のものではない。これを日本本来のものに戻していくということが重要ではないか。

 

森:法律にいう契約は必ずしも有償なものに限られるものではないが、法律学においても金銭との交換関係がある契約関係が中心的なものと考えられており、これを批判する方向からの研究をしている。ローマ法をみるとローマが最も豊かになった時代にのみ農業関係の契約が有償契約として捉えられており、現代のように金銭を媒介とする契約関係が中心と観念されるのは社会が豊かであるからではないだろうか。そのような中で本来は背景にあった有償契約が前面に出て来たのではないか。

 

黒田(司会):ウンマ(アラビア語で共同体)においては、共同体の規模や内実については規定していない。個人が他者と出逢うすべてが共同体といえる。最も大切なのは自己と他者との関係を築くこと、言い換えれば、自己と他者の境界を外すこと。民主主義は自由、平等、博愛というが、自由と平等は両立しない。自由と平等が両立するためにはそれを成立させるような世界観をもつことが必要。仏教が説くように、我を捨てて全ての他者を救うこと、それ程大きい自己であることが重要なのではないだろうか。

 

聴衆:植民地主義の中で固有の思想が破壊されるということはあったと思われるが、アフリカにおいてウブントゥという法思想が現在も続いているのは他の植民地とは異なる要素があったのか。

 

松本:植民地支配の期間が短かったこと、また植民地支配に対抗する手段としてウブントゥのようなアフリカ的なものを強く内側に持つようになったことが要因だと思われる。

以上


閉会挨拶 奥田和彦(フェリス女学院大学名誉教授)

 

懇親会(18:0020:00)椿山荘