地域文化学会 研修旅行 行程
2013年9月18日(水)- 19日(木)
研修旅行の初日は、幸いにも晴天に恵まれた。正午、一関駅に集合した一行(7名)は、そこから車を利用して、気仙沼に向かった。最初の目的地は、市街を一望できる安波山(あんばさん、標高239m)であった。この山は、「航海の安全と大漁を祈願する」ということに由来して名付けられたもので、気仙沼のシンボルとして知られている。次いで、震災による津波で港から750m離れた市街地へと打ち上げられた漁船「第18共徳丸」(330t)を見学した。折しも、船主から解体を受注したNPO法人による作業の最中であり、その様子を写真に収める観光客の姿が多々みられた。この一帯では、充分な高さの堤防が設置されていないばかりに、引き潮が海へと放出されず、被害が更に拡大した経緯がある。そのため、同様の事態を未然に防ぐことを目的として、防潮堤を建設する計画が持ち上がっている。しかし、周辺地域を拠点とする観光業や漁業が廃業に追い込まれるとの懸念などから、未だに地域住民の合意は得られていない。一方、地盤の嵩上げが漸次的におこなわれているが、その作業の完了には、膨大な財源や資材を要するため、長い時間を要すると思われる。こうした現状を市街地の様子から感じ取りつつ、「復興屋台村気仙沼横町」に立寄り、地域の食材や土産品を求めた。この場所は、津波による被害を受けた飲食店を支援することを旨とした仮設店舗群である。その周辺を散策したのち、気仙沼港の観光桟橋からフェリーに乗船して、大島へと向かった。宮城県北東部の気仙沼内湾に位置するこの島は、人口3,000人ほどが居住する東北最大(9.05km2)の有人離島であり、震災による甚大な被害を受けた地域の一つである。一行は、気仙沼大島の復興に向けた活動に携わる村上盛文さんの案内で、詩人・水上不二(みずかみふじ)の詩に「緑真珠」と詠まれるほどの景色を望む亀山(標高235m)に赴いた。その山頂から、唐桑半島側の入江を見渡すと、養殖板が連なる季節の光景がみられた。また、展望台から階段で下りた先には、火災によって焼失した亀山リフトの乗場の跡がみられ、当時の様子を物語っていた。展望場所では、村上さんから島の歴史や震災の様子が語られ、如何にして活気を取り戻すかについての構想が述べられた。夕陽が西に沈みかけた頃合いでその場を離れ、旅館・椿荘花月(つばきそうかげつ)に宿泊し、地元の食材をふんだんに使った海鮮料理に舌鼓を打った。
翌朝、村上さんから「気仙沼の復興の現状と課題」というテーマで講演をいただいた(下記要約)。そこでは、被災当時の様子とその後の復興に向けた、現地周辺の動きについて、自身の実体験に基づいたお話を伺った。大島をあとにして、一関に戻ったのちには有志者を募り、2011年にユネスコの世界遺産に登録された平泉を訪れた。坂道を上って、中尊寺や金色堂を見学したのち、名残を惜しみつつ、東北の地に別れを告げた。
以上
地域文化学会 研修旅行 講演 2013年9月19日(木)
講師:村上盛文さん(グリーンツーリズム・インストラクター)
テーマ:気仙沼の復興の現状と課題
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、「千年に一度」といわれる規模の大地震であった。その由来ともなった貞観地震(869年)もまた、今回と同様に、三陸地方の広範囲に渡って甚大な被害をもたらした。この地震によって発生した津波は、大島の反対側にまで及ぶほどの威力であったと語り継がれており、その凄まじさは、「島が三つに分断された」という言い伝えに象徴される。奇しくも今回の震災では、かかる伝説が現実と化したことで、その表現 の正しさが皮肉にも証明された形となった。
津波によって、港から遠く離れた市街地に打ち上げられた大型漁船「第18共徳丸(330t)」の所在する鹿折(ししおり)地区は、気仙沼において、最も被害が大きい場所の一つである。それは、湾の奥地に位置しているために、津波の勢いが増幅したことに起因する。また、同地区は火災による被害も甚大であった。たとえば、鹿折唐桑駅(JR大船渡線)周辺の住宅地は、建物の金属が焼け焦げたために錆び付いており、教科書などで目にする戦争後の様子に瓜二つであった。
今回の震災において、多くの死者・負傷者を出したのは、地震によって発生した津波そのものと、それを遠因とした火事によるところが大きい。市内海岸部には、漁船燃料を備蓄するタンクの集積所があるが、これらが津波によって流出したことで、重油が湾一帯に拡散した。こうした情況にあって、津波によって破壊された家々が瓦礫となり、何らかの拍子に発火したため、気仙沼の内湾一帯は火の海と化した。その炎は海岸線を伝い、大島にも燃え移っており、亀山(標高235m)には炭化した立木が残るなど、当時の痕跡を在り在りと残している[i]。
こうした一方で、身体を濡らした状態に長らく置かれ、低体温症で亡くなった者も少なくないとされる。その主たる理由は、建物の高所や屋上に避難することで、津波の直接的被害から逃れることはできたものの、建物の内部にまで水が流入したために、それに伴う寒さによって、心身ともに衰弱したことにある。また、避難の手段としてや離ればなれとなった家族や友人の安否を確認すべく、乗用車をその足とした者が数多くみられたが、市街地で発生した渋滞に巻き込まれたために、津波から逃げ果せずに命を落とした者も多いといわれる。
かような紙一重の情況に遭遇したことで、今回の被災者は、この震災から『生かされた』という実感が強い。極限状態における選択の果てに、尚も自分達が生かされたと認識するならば、この記憶を少しでも多くの人に知ってほしいとの願いがある。そのように考えている者は被災地に大勢おり、その人達が震災の語り部として、各所で話をしていると思われる。こうした語り部は、生涯に一度は震災に遭遇する蓋然性の高さを踏まえたうえで、次の世代に教訓を遺すために重要な役割を果たしている。
自然を回復させるためには長い時間を要するが、その一方で「人の復興」を持続させねばならない。すなわち、復興住宅の完成を以て、そこへ人々を移住させることが復興の完結を意味するのではなく、現地の住民が従来的な生活を取り戻したうえで、それを根幹的に支える仕事をもつことが「復興」の必要条件であろう。そのためには、直接の物理的支援よりも、むしろ共に東北を復興させようとする気概と、一人一人のもつ知識や知恵を総動員することが不可欠である。
みてきたが、自然災害は至るところで発生しており、そう遠くない未来に関東や東海でも大地震が起こりうると懸念されるなかで、その備えを充分に講じることが求められる。村上さんは、こうした情況に鑑みて、現地から遠くはなれた人々が今回の震災を他人事として捉えるべきではなく、自らの身を守る手段を再考するための奇貨となることを希求して、講演を終えた。
以上
[i] 一連の様子については、「証言記録東日本大震災第11回宮城県気仙沼市 〜津波火災と闘った島〜」を参照されたい。