地域文化学会第173回月例研究会・公開セミナー 2012年10月13日(土)
講師:鈴木均先生(アジア経済研究所 主任調査研究員)
テーマ:アフガニスタン情勢から中東を考える
[講演要旨]
現在のアフガニスタンを、米軍の駐留抜きに考えることはできない。米国の同時多発テロ(2001年)を受け、米英軍がパキスタンからアフガニスタンへの空爆を実施して、ターリバーン政権を崩壊させた。2011年には、米国特殊部隊によるウサーマ・ビン・ラーディン殺害計画が遂行されが、依然としてアフガニスタンの情況は混迷を深めている。
アフガニスタン情勢を理解するためには、まず地理的な特徴を捉える必要がある。アフガニスタンは、インド、ロシア、アラブ・イスラーム世界に囲まれているが、特にパキスタンとの関係は注視すべきである。1893年の条約により、アフガニスタンとパキスタンの間に境界線「デュアランド線」が画定された。これによってアフガニスタン最大の部族であるパシュトゥーン人の居住区域が分断されたことで民族分断が生じ、現在まで続く大きな禍根の原因となった。
ここで、アフガニスタン国家の歴史的特徴として、国内に①パシュトゥーン国家、②イスラーム国家、③社会主義国家という3つの側面を有してきたことがある。同国は、現在憲法でイスラーム国家であると規定されており[ⅱ]、パシュトゥーンの慣習法が適用されている。たとえば、国の施策に正当性を与える合議制度としてローヤ・ジルガがある。これは、パシュトゥーンの合議制度を端緒としている。同国では、1973年のクーデターにより王制が打倒され、その後社会主義国家としてソ連に近づいた経緯もある。
その後、ソ連の撤退により、アフガニスタンは長期的な内戦状態に陥った。かかる情況のもと、1990年代後半から勢力を伸ばしたのがターリバーンである。ターリバーンとは、元々はパキスタン側の難民キャンプにおいて、宗教教育を施されたパシュトゥーン人の若者を中心に芽生えた宗教的な世直し運動である。[ⅲ]これに資金・軍事力を注入したのがパキスタン軍事統合情報局(ISI)やその背後に存在した米国やサウジアラビアであった。1990年代後半になると、ターリバーンは実質的にアフガニスタン全土を統治するようになって、イスラーム的な教義からは導きえないパシュトゥーンの伝統的な慣習法を取り入れた統治を実施した。その統治は、とりわけ他部族には過酷なものであったこともあり、ターリバーン運動は「イスラーム主義的」要素とパシュトゥーン部族中心主義的な要素を折衷的に併せもったものと理解されている。
ターリバーンの発展は、アフガニスタン近代化の出発点となったデュアランド線の画定と切り離すことはできない。また、ターリバーン運動は、近代的な要素を刻印されたアフガニスタン固有のイスラーム運動であるともいえる。
これらアフガニスタンの地理的または文化的な特質は、現状の政治的過程を含めマイナスに作用する面もあるが、プラスにも転化しうる。この地域が、現在の混迷した状態から脱するならば、アフガニスタンは中央アジアにおいて大きな役割を果たす可能性も出てくるだろう。逆に最も恐れるべきは、国際社会がこの地域から再び目を逸らすことである。そうなれば、アフガニスタンに留まらず、この地域全体の様々な問題が再び噴出してくると思われる。[ⅳ]2014年の米軍撤退を機に、アフガニスタンの政治状況に転機が訪れることは確実であろう。その際、特に日本政府が支援をどの水準で継続するかという問題がある。たとえば、ターリバーンの急進グループが政権をとった場合にあっても支援を継続しうるであろうか。その際、判断材料のひとつになるのは現在の憲法体制がどの程度続いていくかによると思われるが、もしそれが破棄された場合、政府レベルとして支援を続ける正当な理由はないものと思われる。
最後に、アフガニスタンの現状の最大の不幸は、パシュトゥーンを現状において実質的に代表している政治主体がターリバーン以外にないことである。アフガニスタンの多数派であり、歴史的に国家の中枢に位置してきたパシュトゥーン人の存在が、いかにして民族的または民主的主体を獲得するのかが最も根底にある問題といえる(了)。
[ⅰ]鈴木均『現代イランの農村都市―革命・戦争と地方社会の変容』(勁草書房、2011年)を参照。
[ⅱ]鈴木均 編著『ハンドブック現代アフガニスタン』(明石書店、2005年)を参照
[ⅲ]アハメド・ラシッド『ターリバーンイスラム原理主義の戦士たち』(2000年、講談社)を参照。
[ⅳ]以下の書籍から、日本人としてどのようにアフガニスタンに関わっていけばいいのか歴史から学ぶことができる。尾崎三雄『日本人が見た'30年代のアフガン』(石風社、2003年)を参照。
[質疑応答](敬称略、抜粋)
(司会)NATOが介入したのはターリバーンとの戦いのためではなく、テロとの戦いである。つまり、9.11以降、米国等が戦った相手はアルカイダだが、ビン・ラーディン(1957-2011年)の殺害以降、アルカイダはいかなる情況にあるのか、現在のシリア等での活動も含めて説明して戴きたい。
(鈴木)ビン・ラーディンは、元々米国に留学していた。80年代末から90年代、アフガニスタンはソ連が撤退して内戦状態となったが、現在のように国際的な関心の的ではなかった。そういった経緯もあって、ビン・ラーディンやその仲間が、国際的なテロ活動の拠点に最も適当な場所としてアフガニスタンを選択したといえる。ターリバーン側も、アルカイダ組織との交流を深めてゆくにつれて、過激化したものと思われる。バーミヤンによる石窟大仏の破壊は、その一つの象徴である。実はそれ以前にも国際NGO組織への攻撃を含め、ターリバーンの考え方は、反米・反西欧という形で過激化していった経緯がある。現在、ターリバーンは明確な命令系統なき組織のまま、活動拠点を移してきている。具体的には、アルジェリアやアラビア半島のイエメンなどに焦点を移している。現時点でターリバーンの運動とアルカイダの運動は、アフガニスタン情勢にあって統一された動きではないと認識すべきであろう。
(聴衆1)中国がこの地域の高山資源を狙っていると聞いたことがある。以前、タイの陸軍大佐と面会した際、中国の周辺国は中国の膨張主義・覇権主義を非常に恐れているという話題が出た。アフガニスタンも中国と隣接しているが、中国との関係についてアフガニスタンの国民はどのように考えているのか。
(鈴木)中国が覇権的に、特に地下資源に狙いを定めて影響力を強めていることは事実である。それに比較すると、日本は経済的な野心はなく、アフガニスタンの友邦として協力してくれているという意識が強いだろうと思われる。カブール大学にロシア語や中国語の講座はあるようだが、日本語講座は現在でもない。例えばこのような点の改善がなされれば、日本は将来的に、単なるハコモノの支援ではなく、人間の交流、育成、教育というレベルでアフガニスタンに継続的に貢献できるだろう。そのような人材の受け皿をカブールで作れることで、中国などとは異なる日本の関与のあり方が見えてくると思われる。
(黒田)アフガニスタンが一つの国であること自体が、国民国家のシステムの存在意義を疑うところがある。先生が付論2で「肝要なのはパシュトゥーン人の民主的主体の形成の問題だ」と仰ったが、これはパシュトゥーン人の問題が解決しないことには、他の部族の問題も収まらないという意味で仰っているのだと推察する。だとすると、なぜパシュトゥーン人だけ、即ちアフガニスタンの色々な部族にあってこの部族だけ抽出して、その民主的主体の形成の問題だと仰せなのか。すなわち、幾つもの部族から残ってくる最大部族の民主的主体性が形成されることが全体の安定に繋がるという趣旨かも知れないが、なぜ他の民族が省略されているのか。もう一つは、民主的主体と言うとき、一体どのような意味でこれを想定しているのか。それに関連して、様々な民族が生存している場合、それらは一つの国家的な統合意識ではなく、ローヤ・ジルガのような、イスラーム世界で言うと「シューラ(評議会)」に該当すると思う。それらは、特殊な部族的なシューラに相当するものが独特の観点から互いに主張し合い、一つの結論を得るといった国民国家的に何か一つの答えを選択するのではなく、多数意思の結晶が昇華されるような決定機関が、これら地域には重要なのである。この意味で、ローヤ・ジルガは非常に重要だが、パシュトゥーン人の間だけであるのか、他の民族・部族を総合してあって、それが国家の法といかなる関係にあるのかを伺いたい。
(鈴木)パシュトゥーン人ということを中心に申し上げたのは、現在のアフガニスタンの問題はターリバーンを巡って発生しており、政治的・情況的判断から最重要なものをいうとすれば、第一義的にパシュトゥーン人の問題となるためである。それは黒田先生にご指摘戴いたように、他の民族の問題も当然ある。しかし特にアフガニスタン全体を覆っている国家的な問題として、デュアランド線の問題がある。これは単に国境線を変更すれば解決する問題ではないが、デュアラント線の問題を何らかのレベルで安定化させない限りはアフガニスタンの恒久的な安定は到底ありえない。また、安定的であることを好まない意図で実に巧妙に当時の帝国主義的な発想から画定された線だとも思われる。
しかし、こうした発想を超えてゆくのがパシュトゥーン人の民主的な、-ここで民主的というのは、現在行われている一人一票を原則とした議会民主主義制度が最良ということではない―、いわばターリバーンのように従来の政治過程のなかで影響力を持ってきた勢力とは別の、民の意思を反映している民主的な主体というものが形成される、という政治プロセスであろう。伝統的な部族の代表が集まった形のローヤ・ジルガを頂点とするジルガの制度は確かにその点に関係しており、アフガニスタンのなかで社会的実情に合わせ、社会規範の実態に合わせる形で、民主的価値を体現するような国民合意形成システムの一つのプロトタイプにはなってくると思われる。
ただし、ローヤ・ジルガは現在でも憲法に規定されており、そこでは「ローヤ・ジルガは最高の決定機関である」旨が明記されている。具体的には、構成メンバーの条件が列挙されているが、ローヤ・ジルガが憲法システムの上にあるのか、下にあるのかは明確ではない。民主的なシステムの創造には、アフガニスタン国家の文化的・歴史的な経緯を反映したローヤ・ジルガの組織を意識しなければならないと思われる。
(司会)そうすると、ローヤ・ジルガは最高機関となるが、アフガニスタンにはいわゆる国会議員もいる国会とローヤ・ジルガは憲法上どのような位置づけになっているのか。
(鈴木)ジルガは、一番下では農村レベルでも形成されているものである。ローヤ・ジルガはその頂点のような位置づけで、アフガニスタンの国民国家の枠組みにおいて構成される民族、代表、国会議長や大臣もおり最終的な決定権を持つ一方、国会組織と異なって、ローヤ・ジルガは決議するべき議題があるたびに召集されるものである。ローヤ・ジルガは個別事案的に招集されるが、その際の決議は国会の議決に優先することとなる。この点、日本の国会のように会期のようなものがある訳ではなく、通常の立法事案などは国会によって審議される。
(聴衆2)2009年にアフガニスタンの大統領顧問や農村開発省の役人、周辺諸国の日本の大使と秘密会議が東京で開催された。2009年に鳩山内閣はアフガニスタンに対して60億円の支援を表明した。ところがその後の米国の撤退問題をはじめ、日本国内における政治情況の変動を受けて、日本ができるアフガニスタンへの支援はどのように変容したか。もう一つは、ターリバーンの問題である。我々は秘密会議にターリバーンを招請しようと努力をしたが、特にパキスタン大使の断固とした反対に合い実現しなかった。その中で印象的だったのは、ターリバーンに対する最も強烈な武器は「正しいイスラームがどういうものか伝えること」だという意見が出たことである。これを受けて、我々は8項目からなる事柄を取り込むこととなった。本日の資料の付論3の「国際的に協調して取り組むべき課題」に、ターリバーンの承認問題、麻薬密輸の撲滅、再武装化の阻止、国家制度や農工業の再生とあるが、これはいずれも秘密会議で議論したことである。その中でとくにイスラームに対する理解を、国内的にも国際的にも広めなければならないという議論があったが、その点どのようにお考えか。
(鈴木)大変重い課題についてご質問を戴いたと思う。最も懸念しているのが、こうしたアフガニスタンの問題、それからイランの情況を含めて中東は危険である、従って関与しない方が良いという議論が出ていることである。このような議論には断固として反論していかなければならない。この地域は危険だから関与するのをやめようという議論自体を乗り越えなければならない。そのような意味ではアフガニスタン支援は一国の問題ともいえない。周辺国との関係の問題、そして更に大きな広がりを含んだ問題ということができる。日本は米国の意向に従って資金をただ注入していれば良いのではなく、国として戦略的目標を明確にすべきである。日本は支援を継続するか否かだけでなく、戦略的撤退も含めつつ、各段階で判断しながら主体的に関与していかなければならない。次に、ターリバーンの問題だが、「正しいイスラームを伝える」というのはその通りである。ただし、正しいイスラーム以前の問題も多々含んでいるのであり、例えば、なぜ外国からの援助団体を攻撃してはいけないのか、なぜ学校に通っている女子学生を攻撃してはいけないのか等の根本的な問題がある。また、最近一部で関心を呼んでいるものにターリバーンのいわゆる軍規的なものがある。そこではターリバーンの中のある種の規範として、将来的に法律を制定していく出発点として捉えられるとされる。だがターリバーンは国際的な水準以前に同時代に生きる人間として共感できるような倫理的基準をもつべきであろう。そうでなければ、本来は対話すら成り立たないのではなかろうか。
(司会)先生のお話だと農村都市の発達が起爆剤になり、イランが非常にポテンシャルの高い国になっている。アフガニスタンの話を聞いていると、政治的解決という意味においてはあまりにも色々な要素がからんでいて非常に難しい。アフガニスタンにおいて、農村都市の発達から解決の糸口のようなものが出てくるのか、それは完全に社会的ファクターとして難しいのか。
(鈴木)要はアフガニスタンの地方社会はどうなっているのかというご質問だと思うが、人口が増加していることは確かである。しかし、アフガニスタンではかつてのいわば農村コミュニティに閉じ込められる形で膨張しており、イランのような地方小都市の発展には繋がっていない。そのような意味では、古い社会的な構造を残したまま規模のみが大きくなっている。おそらくアフガニスタンの社会情況はイランからみると数十年間後塵を拝しているということになる。だがそれゆえにイランの経験を生かしうる余地もあるのではないか。イランの通ってきた道に目を向ければアフガニスタンにとっても発展の可能性が出てくるのではないかと思っている(了)。
以上